天井まで届く一面の格子窓の向こうに、河を挟んだ街の夜景が広がっている。煌びやかな街灯りは、濃紺に染まった雄大な水面に幻想的な絵画を描いていた。
ダウネリス連邦グラテム州都リアファール。ダウネリスの誇る経済都市は、静寂の夜にその繁栄を見事に表して華美な夜の世界を演出していた。自国ラエヴィガータで観光都市として名高いファウニーレの夜景とは趣を異にするが、比肩する美しさは人の目を魅了して止まないものである。
隣国の素晴らしい夜景を前に、ジェイラス・エイドリアンはしかし、今日の自分にその美を堪能する時間が許されていないことに内心で嘆息していた。
捻っていた上体を元に戻し、円卓へと視線を戻す。
「 ・・・・・・ さて。どうにも頭の痛いことばかり続きますね 」
手元だけがはっきり見える程度に適度に照明が落とされた室内、円卓に着くジェイラスの左手から、口調には些かの困窮も含まれていない誠実な男の声が静かに流れた。手に葡萄酒が注がれた杯を持ち、高級木材で作られた飴色の卓の上で踊るランプの炎を見つめているのは、柔らかな面差しの壮年の男 ―― セルギオス・ハルキアだ。
ジェイラスの属する組織オクロックを統べ、ラエヴィガータ共和国を裏から支配する帝王、 《 インヤン 》 のコードを持つ者である。
「 そちが蒔いた種であろ。つまらぬ戯言を抜かすでないぞ 」
卓の向こう側、各々に用意された軽食にも葡萄酒の杯にも手をつけぬまま、その奥でしなだれかかるように華奢な肢体を長椅子に埋めた濃艶な少女が、二色の双眸を気怠げに寄越す。こちらを眺めやるその色は冷たくはあったが、対面するインヤンの言葉を楽しんでいる風でもあり、気品ある黒猫を思わせた。
本日の、オクロックトップの会談の相手であった少女 ―― ダウネリス連邦中枢を掌中にし、数多の組織の中で最大の勢力を誇るオクロックと並び立つと言われる組織オクタゴンの長、東の女帝とも称される人物、ウェイリー・フェイである。
だが今は、ジェイラスの隣に座す男同様、時に君臨せし女帝の名を冠する 《 クイーン 》 のコード付きとして、この場に存在している。
かく言うジェイラスも、今だけはオクロック頂点の補佐役ではなく、彼女達と対等の立場を許されるコード 《 インセイン 》 として列席していた。
「 相変わらず、姉上は厳しいですね 」
「 そちのふざけが過ぎるだけじゃ 」
手にした扇で半ばまで顔を隠し、クイーンが眠たげに目を細める。その仕草に加え、彼女の透き通る程白い肌には艶やかな紫紺の髪が艶麗な影を落とし、同色の特異な衣の明きからはほっそりとした両手脚が覗いており、十二分に異性を魅了する色香を放っていた。
しかし、彼女が何者であるかを知っているジェイラスは、その姿に対して畏怖を抱く。
氷の刃を思わせる双瞳は外見にそぐわぬ老成した知性の光を宿し、簡単に手折ってしまえそうな四肢には東の大陸に伝わる神獣が長大な体を這わせて、彼女を捕らえて放さぬと言いたげに肌の上で脈打っており、実に面妖である。
十代中頃と見える少女にしては実に不遜な物言いも態度も、その容姿と相俟って至当なものであるとの認識を自然に抱かせる存在なのだ。
「 しかし、蒔かぬ種は生えぬと言う言葉があります。行動は起こさねば意味をなしません、姉上。それが我々調停者の役目でもあります 」
「 ぬけぬけと ・・・・・・ 蒔く種が粗暴では、清い水をやったところで生える芽も青葉にはなるまい? 」
わずかに咎める色のこもったクイーンの瞳が、インヤンからジェイラスへと動いた。細く高いが、威厳のある声がそれに続く。
「 それとも、これがそちの執る狂劇かえ、 《 インセイン 》 ? 」
「 恐れながら、この件は白の賢者自らの申し出。わたくしどもは彼の希望を忠実に形にしただけに御座います 」
「 随分と甘いですなぁ。賢者殿も、あなたも 」
目礼を返してのジェイラスの発言に、粘着質な四人目の声が上がる。クイーンの隣、ジェイラスの対面に座る肥満体型の小柄な男だ。
ラプシー・ギデンスと言う名のオクタゴンの幹部にして、コード 《 ハブリス・ファット 》 に任じられている、この場に集う最後のコード付きである。
組織内の立場上ジェイラスと同列視されるオクタゴンの参謀とも言うべき男だが、ジェイラスはこの男のことを好ましく思っていない。
オクロックの発展に貢献したジェイラス同様、オクタゴンが今日の勢力を誇るのは彼の手腕あってのものである。だが、奸智に長けると言えば多少の聞こえはいいが如何せんやることなすこと悪辣非道で、目に余るのだ。
それ故にコードを与えられた男ではあるのだが、そうでなければ即刻退室願っているところである。さもなくば、インセインたるジェイラス自らが息の根を止めていることだろう。
それ程までにジェイラスは、ハブリス・ファットと言う男の内外含めた存在全てを嫌悪していた。公の場で悪感情はおくびにも出さないが、二人が犬猿の仲であることは周知の事実でもある。
「 この世界はそのように甘いものではありますまい? 実に腑抜けておいでだと言わざるを得ませんなぁ 」
腫れぼったい太い五指が不躾に葡萄酒の杯を掴み、喉に流し込む。
ジェイラスの先手を取れたことで優位に立ったと、酷く自慢気な態度が癇に障る。インヤンがこの会談の場にとわざわざ持参した高級な葡萄酒が、味の分からない人間に容易く飲み干されるのを見るのも、実に不愉快だった。
そんなジェイラスの内心を理解してか、インヤンが微苦笑をして、こちらは上品に葡萄酒を口に含んだ。余裕すら見せてハブリス・ファットの言葉を受け流す。
「 あなたのやり方では、少々刺激が強すぎるのですよ 」
「 それはまた軟弱ですなぁ 」
「 そちの神経の太さに比べれば、皆繊細に出来ておるわ。しばらく黙っておれ、耳障りじゃ 」
容赦のない女帝の一言が下僕の身を打ち据えた。丸々とした顔に浮かんでいた嘲弄が、優越が、親に捨てられた子とでも表現すればいいのか、実に情けのない顔の中に一気に萎んでいく。
一方、クイーンはと言えば手にした扇を優雅に揺らして欠伸を漏らすだけで、哀れな部下を一顧だにしない。その様は少なからずジェイラスの溜飲を下げ、手にした葡萄酒に旨味を加味した。
「 そちは 《 ニンブル 》 をどうするつもりじゃ? 」
「 勿論、この手に 」
話の軌道を修正された室内に静かな空気が満ち、単刀直入な問いが間を置かず斬り込み、相手もまた簡潔な言葉で斬り返す。
「 遠慮を知らぬ、依然たる強欲振りじゃの 」
「 十年振りの剣です。あなた方でなくとも、どの組織でも欲しがりましょう 」
クイーンが扇の奥で雪肌に皺を刻んだ。
「 あの童も難儀なものじゃ 」
親友が大切に育てた少年の人懐こい顔を思い浮かべて、ジェイラスも心ばかり顔を曇らせた。
調停者の中で、最も世界を混乱に陥れる危険性を秘めたコード付きと言われるニンブルが、十年の空白を経て再び埋まった。その力は上手く使えば組織にとって大いなる成功を約束するが、一歩でも間違えればどうなるか。その結果は、今までの人生において嫌と言う程見てきたし、今の子供達が学ぶ歴史の中にも、特に近代史に戦争と言う名で点々と汚名を残している。
最大勢力であるオクロックやオクタゴンでさえ欲しがるこの力を、裏世界に数多存在する他の組織が欲しがらない道理はない。新たなニンブルに任命された少年の実力がどれ程であれ、その名の意味が持つ力は計り知れない。
今はまだコード付きだけに周知されているが、それも束の間。何の手も打たなければ、明日にでもこの情報は多くの者が知ることになるだろう。
「 ・・・・・・ とは言え、早急に手に入れるつもりはありませんがね、私は 」
インヤンが肩を竦めて、少しばかり戯けた仕草をする。鼻先に落ちた片眼鏡が不真面目さに拍車をかけていたが、それが実に似合いであった。
「 何と言っても、今無理にあの少年に手を出せば 《 アダム 》 が牙を剥きますからね。私は彼が一番欲しいのです、敵に回す愚は犯せない 」
「 じゃが、他の組織に易々獲らせもせぬのじゃろう、そちは? 一国支配とは、どうしてなかなか攻め込むには厄介じゃの 」
「 お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします、姉上 」
「 ・・・・・・ 褒めてなどおらぬわ、生意気な童め 」
インヤンは冗談めかして言うが、実際にニンブルを明確に組織の一人として擁するのは実に難しい。何と言っても、彼の背後にはナリッジマンとアダムがいる。ニンブルとの間に余程の確執が生じない限りは、二人が首を横に振ればそれはニンブルの意思も同然だ。
ナリッジマンとは、彼が数代前のニンブルであった頃から親交がある点においてオクロックは他の組織よりも接触し易いが、互いをよく知る間柄であればこその踏み込みの難しさがある。
下手を打って良好な関係を崩しでもすれば、表裏に豊かな人脈を持つナリッジマンである。彼を中心に新たな一組織が出来上がってもおかしくはない。そして、その中にはアダムやニンブルは当然ながら、彼らと深い繋がりのあるピエロとジョーカーの参画は否定出来ないだろう。更にはフェザリーやイヴ ―― 特にフェザリーの立ち位置によってはゴーストやマカーブル・オーダーまでもが与しないとも限らない。
総勢九名ものコード付きを擁する組織など、前代未聞にして最悪の展開である。現在の勢力図が塗り変わるどころではない。現実に世界が変わってしまうだろう。
だが、何より恐ろしいのが、その未来がサイファーの紡ぐ戯曲である場合である。
あの男の思考は、現在から未来を予想する力に長けるナリッジマンでさえ、まるで分からないと言う。一体何を考えてニンブルを少年に与えたのか ―― その真意が少しでも分からぬ内は、迂闊に動けない。
先刻、インヤンはアダムを理由に今は手に入れるつもりはないと言ったが、正確にはそれは正しくない。アダムを理由にせずとも、どんなに欲していようとも今は手に入れられない、手に入れてはならないのだ。そして、それが分かっているからこそ、クイーンも手に入れる意志こそ見せてはいるものの、それを行動に移す素振りは欠片も見せていない。ナリッジマンやアダムにしても、己の力の大きさの自覚はある。
故に、懸念すべきは他組織の動向。
サイファーと言う最悪の男の思惑を、その存在すらも知らぬ裏世界の住人達。彼らにニンブルを渡してはならない。
「 《 ハブリス・ファット 》 そちに発言を許す。館の主は何と申しておった? 」
クイーンの言葉がジェイラスを思考の渦から引き上げた。その先で、主の一言が下僕に生気を吹き込んだのが見えた。もそもそと食事をしていた手を止め、慌てて口元を拭って趣味の悪い指輪の嵌った指で中空に輪を描く。
「 《 ナリッジマン 》 が既に手を打っておりまして、わたくしめが連絡を取ったところ、三日の猶予を約束したとのことでありました 」
「 後二日じゃな ・・・・・・ 《 ユーバー・ビッチ 》 は何と? 」
「 鋭意調査中とのことでありましたが、三日以内に結果は出すと。それから ・・・・・・ 《 ニンブル 》 に関してはそれどころではないので、勝手にやってくれるよう伝えてくれと 」
「 成程、実に彼らしい 」
今日この場に同席する予定であった男からの伝言に、インヤンが苦笑する。他人事のように 「 彼は大変なようだね 」 とジェイラスへ話を振ってきたが、ジェイラスはそれに素直に頷くことは出来なかった。代わりに、こちらからもクイーン達へ向けて情報を提示する。
「 《 ラキューナ 》 は未だ明確な方針を打ち出してはいませんが、こちらも一両日中には動きを見せると見ていいでしょうな 」
「 どこもかしこも大慌て、と言ったところかな 」
この長は時折、事態の重大さを認識していながら敢えてそれに素知らぬ顔をする悪癖がある。子供のように邪気のない言葉を口にする横顔に、ジェイラスは困ったように片眉を上げた。しかし、ランプの淡い光に桑色の双眸を煌めかせているところからして、壮大な未来への着実な道へ至る式を何十も紡いでいるのだろう。
これからもまだまだ苦労させられそうだと、ジェイラスは葡萄酒を飲むついでに吐き出した吐息に、そっと重みを乗せた。
「 《 ラキューナ 》 は難渋するじゃろうな。前任の 《 ニンブル 》 が生きておったならば今頃は盤石の組織となっておったろうに、それが叶っておらぬ。早まらねばよいが ・・・・・・ 」
「 彼女もまたコード付き。分からない筈はありませんよ、姉上 」
「 そうですとも、 《 クイーン 》 。今、我々が最も懸念すべきは一つでございます 」
クイーンの危惧を払拭するようにハブリス・ファットがやや声高に、はっきりと告げた。その声には、彼には珍しくこの場にいる全員の耳目を属する力があった。クイーンが感心するように下僕を見やり、インヤンが片眼鏡を押し上げて注目する。
だが、それだけだった。
彼の言葉が後に崩壊への序曲となることを、この時ここにいた者達は誰一人予想出来なかったのだ。
「 異国の幻術師の奏でる天国 ―― 我らが国土でのその席巻を阻止する、それだけでございます 」
暗い室内に、その言葉だけが殷々と響く。
それは、ジェイラスに水面に映る星明かりが立つ波に消えては現れるような、不確定な形の揺らめきを切り裂く刃の存在を想起させた。